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他人なんて、信じるべきじゃない。

信じたりするから裏切られる。

勝手に期待されて、勝手に見損なわれるんだ。

だから俺はずっと、ひとりぼっちだった。

ひとりぼっちでいることが正しいと、自分に言い聞かせていた。

その証拠に、今日だって絶望のリフレインは止まらない。

「神谷って、どうせ俺らのことを見下してるんだろ」
「あんな小説書いちゃうなんて、性格悪いよね」
「ちやほやされて、調子乗ってんじゃねえよ」
「お前に友だちなんてできるわけない」

目をそむけても、耳を塞いでも、脳に直接大音量のスピーカーを向けられているようだった。指から足の爪先まで、全身が冷えきっていくのを感じる。

いつだって思い出すのは、あの薄暗い教室だ。

しばらくうずくまっていると、ぐらりと世界が揺れた。

「ねえ、蒼(あお)!大丈夫?」

肩を揺すられて、俺は車の助手席で目を覚ました。背中までじっとりと嫌な汗をかいていることに気づく。

運転席に座る姉の神谷 桃(かみや もも)が、俺の顔を心配そうに覗きこんでいた。

「姉ちゃん......」

俺は寝ている間にずれてしまった、細いメタルフレームの眼鏡を直す。

「顔、真っ青よ。それにうなされてたみたいだし」

姉ちゃんは続く言葉を言いづらそうに飲み込んだ。 姉ちゃんが何を言いたいのかは察しがつく。俺がこんな風になってしまうところを、姉ちゃ んは何度も見ているはずだから。

「大学に着いたわよ。降りる準備はできてる?」

俺はちらりと窓の外を見る。さっきまで広がっていた灰色の道路に代わり、華やかな煉瓦造りの校門が視界に映った。そこでは多くの新入生が記念写真を撮影している。誰もかれもが、ここから始まる大学生生 活に夢をはせていて眩しかった。

「仕事前なのに、送ってくれてありがとう」

姉ちゃんに礼を言って、シートベルトを外した。 着慣れないスーツのジャケットと鞄を手にして、ドアを開ける。待って、と姉ちゃんの大きな声が聞こえた。振り返ると、姉ちゃんは困ったように視線を泳がせている。

「ねえ、本当に大丈夫??私、仕事を休んでついて行っても......」
「姉ちゃん」

ゆっくりと息を吸う。最悪な夢のせいでまだ動悸は落ち着いていない。 悟られないように、俺は言った。

「大丈夫だから。もう俺のことは放っておいて」

できるだけ姉ちゃんの顔を見ないようにして、車のドアを閉めた。ハレの日だと言うのに、俺の足取りは鉛のように重い。

俺は今日、初めて暮らす東京で、大学生になる。

大勢の学生が着席している体育館。 最前列の右端に身を寄せている俺は、身体中から血の気が引いていくのを実感した。つまるところ、全然大丈夫じゃなかった。

「あの、やっぱり俺、無理です」

椅子と椅子の間に設けられた通路をせわしなく歩く大学職員に、思い切って声をかけた。

「えっ?む、無理って言ったって。そんな今更......」

職員からは困惑や心配と言うよりも、明 らかに面倒くさそうな感情が見て取れた。彼はニコニコと笑顔を浮かべながら、俺の肩を軽く叩いた。 リラックスだよ、なんて、何の解決にもならない言葉をかけながら。

「本当なら、入試成績一位の子に挨拶してもらうんだけど、急病で来れないみたいでさ。その場合は二位の子にやってもらう決まりなんだよ」

それはさっき別の職員からも聞いた説明だった。俺だって、好きで二位になったわけじゃない。

「名誉な役目じゃないか。それに短い挨拶だし、どうにか頼むよ」

都内でも指折りの名門・東一星とういつせい大学の入学式で挨拶できるとなれば、多くの学生や保護者は 誇りに思うだろう。
 

しかし、俺は違う。握りしめていた原稿用紙の端が、ぐしゃりと皺になった。

「俺が人前に出て話すなんて、もしそんなことしたら......」
「あ、ごめん。少し待ってて」
「ちょ、ちょっと!」

大学職員は無情にも、遠くで彼を呼ぶ声に反応して立ち去ってしまった。二千人もの新入生がホールに収容されているのだから、運営もさぞ大変なのだろう。新入生 の総数は八千人を越えていて、複数回にわけて入学式が行われると言うから、そのスケールにも驚かされる。

そして、俺は取り残された。

入学式はもうすぐ幕を開けてしまう。すぐ隣では新入生同士が、喜びを隠しきれない心地で話しているのに、俺は世界中にたった 一人のような気分になった。

逃げ出してしまいたい。

もう戻って来ないであろう職員を恨みながら、俺は原稿を凝視した。名前を呼ばれて、立って、歩いて、読んで、おじぎして、帰ってくる。たったそれだけのことじゃないか。それだけなのに、なぜこんなにも寒気と震えが止まらないんだろう。

「それでは、新入生代表挨拶を神谷蒼くんにお願いします」

アナウンスが聴こえた。 小さく息を飲む。
はい、と短く答えた。


何も考えるな。ただ書いてあることを読むんだ。
自分に言い聞かせるように呟いて、壇上へと向かう。


マイクのある演台の前に立ったところまでは、鮮明に覚えていた。

しかし、視線を上げて、多くの人々の視線が俺に集まっていることに気づいた瞬間、身体が 固まった。

「あ......」

言葉に詰まる俺を見て、次第にホール内はざわつき始める。 なぜだか聴覚だけは冴え渡っていて、いろんな声が聞こえた。

「なあ、あれって、高校生作家とかで有名になった子ちゃうん」
「本当だ、テレビで観たことある!神谷くんだっけ」

その会話の発端が普段聞きなれない関西弁だったからこそ、余計に耳についた。俺は頭の中が真っ白になる。

見られている。蔑まれている。笑われている。何が現実で、何が想像なのか区別がつかない。

ほら、やっぱり無理だった。

あの頃から俺は、何も成長していない。俺は、人前で話すことに、どうしようもない トラウマ
があった。

挨拶は散々だった。

一言、二言くらいは原稿通り話せたかもしれない。けれどすぐに呼吸が上手くできなくなって、目の前が暗くなり、足に力が入らなくなった。

情けなさや後ろめたさが絡まる絶望の中、俺は無様に意識を飛ばした。 床にぶつかる、と身構えたが、痛みが襲ってこなかったことを少しだけ不思議に思った。気を失う直前、何か影のようなものが飛び出してきたように見えた。

「う……」

気がつけば、大学の医務室のベッドに横たわっていた。壇上で動けなくなり倒れてしまった俺は、ここまで担架で運ばれたらしい。

「もう歩けそう?」


ベッドのカーテンを開けて、先生が優しく尋ねてくれた。

「......はい、ご迷惑おかけしました」

ベッドから起き上がり、上着に袖を通す。身体が重かった。あれから入学式がどうなったのかは知らないし、考えたくもなかった。

「せっかくの日に大変だったわね。今日はオリエンテーションで終わりだから、家に帰って も大丈夫よ」
「そうですか......」
「そう言えば、君が倒れる直前にね」

先生が何かを説明しようとするのを遮って、俺は靴を履いて立ち上がった。

「本当にすみませんでした。失礼します」

先生が慌てて呼び止める声がしたが、振り向かない。 逃げるようにして、俺は医務室を出た。

聞きたくなかった。どうしても説明を聞くと、自分が犯してしまった失態を想像してしまうからだ。

入学式が終わって数時間が経っている。キャンパス内は朝よりも混雑が収まっていた。俺はとぼとぼと、構内を抜けていく。このまま身体が空気中に散って溶けて消えてしまえばいいのにと思った。

入学式なんて出るべきじゃなかったんだ。

俺は高校時代、ずっとイジメにあっていた。

進学校で、表立った暴力こそ無かったものの、クラスどころか学年全体で無視をされたり、 悪口を浴びせかけられたりすることが続いた。文房具や服、教科書はいくつ失くしたか数え切れない。信頼していた先生さえも俺を見捨てた時の絶望は、今でも忘れられない。

高校には、二年生の終わりから行かなくなった。高卒認定試験を必死で受けて、大学受験の勉強もして、そして今、俺は地元の静岡を離れて 東京にいる。遠くの大学に入学さえすれば、みじめな自分から少しは変われると思っていた。

淡い期待は全て無駄だったことを思い知る。
結局俺は、こうなんだ。

自嘲気味に笑って、そして泣きたくなった。